安放 - 翻译成日语

安置
納めた
横たえた

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另外,在通往不动堂的台阶中途,会有水从安放着两尊不动尊石像的地方涌出,据说这里的水从来没有枯竭。
また、不動堂に向かう階段の途中には、石像の不動尊が2体置かれた場所から湧水が出ており、この水は枯れたことがないと言われています。
凤凰堂建立于平安时代中期,由安放本尊的中堂以及左右各14米长的翼廊和中堂后方20米的尾廊构成。
鳳凰堂は平安時代中期に建立され、本尊を安置する「中堂」、その左右に設けられた各14メートルの「翼廊」、中堂の後方に延びる20メートルの「尾廊」からなる。
將心安放在鼻孔與上嘴唇之間的四方形區域裡,輕輕地留意正在經過這區域的呼吸氣息。
心を、鼻孔と上唇の間の四角形の区域に静かに置いて、まさにこの区域を通る呼吸の息に、軽く注意を向ける。
安放在曾我堂中、與曾我兄弟有淵源的兩尊木制地藏菩薩立像是神奈川縣及箱根町指定的重要文化遺產。
曽我堂に安置されている、曾我兄弟ゆかりの2体の木造地蔵菩薩立像は、神奈川県および箱根町指定の重要文化財となっています。
T形-腿部位於中間,外觀時尚,並且在選擇較寬的頂部時可以在兩側安放
T字型-足はなめらかな外観のために中央に配置され、幅の広いトップを選択するときに両側に着席できるようになります。
通过后,慰安妇纪念碑再以礼物的形式送给旧金山市政府,这样才最终安放在市里。
これを経た後、慰安婦記念碑は贈呈品という形でサンフランシスコ市政府に贈られ、最終的に市内に配置されることとなる
内部分为三个房间,建筑内外附满金箔,堂内所列佛像下方,安放着奥州藤原氏四代宗主的遗体。
内部は3つの部屋に分かれており、建物の内外ともに総金箔貼りとなっており、祭壇の下部にある棺の中には奥州藤原氏4代の遺体が安置されています
根據寺傳,神龜5年(728年)伊予國的太守越智玉純根據夢將這片土地悟為靈地,祭祀熊野十二社權現。這是聖武天皇的敕願所,據說在天平元年(729年),行基刻下藥師如來,作為主佛安放開基。創建當時的寺名是安養寺,宗派是法相宗,弘仁4年(813年)空海(弘法大師)來訪,改為真言宗。寬平4年(892年)根據衛門三郎再來的傳說,在領主河野息利為出生的長子息方在本寺接受祈禱時,手上出現了寫著“衛門三郎再生”的石頭,改為石手寺。
寺伝によれば、神亀5年(728年)に伊予国の太守、越智玉純(おちのたまずみ)が夢によってこの地を霊地と悟り熊野十二社権現を祀った。これは聖武天皇の勅願所となり、天平元年(729年)に行基が薬師如来を刻んで本尊として安置して開基したという。創建当時の寺名は安養寺、宗派は法相宗であったが、弘仁4年(813年)に空海(弘法大師)が訪れ、真言宗に改めたとされる。寛平4年(892年)領主・河野息利に生まれた長男・息方が当寺で祈祷を受けると握っていた手から「衛門三郎再生」と書かれた石が現れたという衛門三郎再来の伝説によって石手寺と改められた。
在现在的不动院所在地,最初建造寺院的时间尚不明确,但是金堂内安放的药师如来坐像等自从平安时代末期就已经存在于寺院内了。
不動院とは、現在の不動院の地に、最初に寺院が建てられた時期は明らかではありませんが、金堂内に安置されている薬師如来坐像などから、平安時代の終わり頃には、すでに寺が存在していたと考えられています。
物部守屋與蘇我馬子會戰時,據說聖德太子發誓說過“若此戰勝利的話,就建立安放四天王的寺院,救助這世上所有的人們。
物部守屋と蘇我馬子の合戦の際、聖徳太子が「この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立し、この世の全ての人々を救済する」と誓いを立てたのが始まりといわれています。
在寶龜4年(773年),被任命為僧正,同年閏11月24日逝世[2]。在東大寺開山堂安放有「良弁僧正座像」(國寶)。據說也是伊勢原市大山寺的開基。
宝亀4年(773年)には、僧正に任命され、その年の閏11月24日没[2]。東大寺開山堂には「良弁僧正坐像」(国宝)が安置されている。伊勢原市の大山寺の開基とも言われる。
據說空海從唐朝回國後,供奉了請來的兩界曼陀羅,將大日如來作為本尊安放再興,作為母親(傳說中是玉依御前)的菩提寺,改名為曼陀羅寺。在鐮倉時代,後堀河天皇為他提供了寺院的領地,十分繁榮。
空海が唐より帰国後、請来した両界曼荼羅を奉納し、大日如来を本尊として安置し再興、母(伝承では玉依御前)の菩提寺とし、曼荼羅寺と改称したと伝える。鎌倉時代には、後堀河天皇から寺領を給わるほど栄えた。
根據本寺的緣起,凡菌子尼姑將抵達志度浦的檜木靈木帶回草庵安放,從那棵靈木上建造了本尊·十一面觀音,建造了小佛堂供奉。626年(推古天皇33年)創建。
本寺の縁起によると、志度浦にたどり着いた檜の霊木を凡薗子尼(おおしそのこに、智法尼とも)が草庵へ持ち帰り安置し、その霊木から本尊・十一面観音を造立し、小さな堂を建て祀ったという。626年(推古天皇33年)のことで創建とされている。
回程可以顺便看一下公园的常设景观“银心”(由莫斯科“银色雨”电台于2006年安放于此,传说朱丽叶位于维罗纳家的墙上就画着一颗这样的心),走过这颗心的时候可以许愿。
帰り際には公園内の常設造形作品「銀のハート」(モスクワのラジオ局「銀の雨」が2006年に設置したもので、イタリア・ヴェローナのジュリエットの家の壁にこのようなハートが描かれているという話がある)を見て、そこを通りながら願い事をすることもできる。
之後跟著慈訓學習,得到華嚴宗的奧義[1]。隱居於東山(今奈良縣生駒市),安放自己雕刻的執金剛神像,每天鍛鍊修行,得到金鐘行者這樣一個特殊的稱號,傳到聖武天皇耳裡,賜給他羂索院,之後改名為金鐘寺[1]。
さらに慈訓について学び、華厳宗の奥義を受ける[1]。東山(奈良県生駒市)に隠棲し、自ら彫刻した執金剛神像を安置して、日々鍛錬して修行にはげみ、金鐘行者の異名をえたところ、聖武天皇の耳にとまり、羂索院を賜り、これがのちに改名されて金鐘寺となった[1]。
根據寺傳,空海(弘法大師)在這裡修行的時候,感受到了彌勒菩薩帶著很多菩薩的姿態。於是在靈木上刻上彌勒菩薩,建立堂宇,作為本尊安放。傳說空海的外甥真然僧正建立了金堂,祈親上人建立了講堂、三重塔等,成為了七堂伽藍的大寺院。
寺伝によれば、空海(弘法大師)がこの地で修行をしていた際に、弥勒菩薩が多くの菩薩を連れた姿を感得した。そこで霊木に弥勒菩薩を刻み堂宇を建立して本尊として安置したという。空海の甥に当る真然僧正が金堂を建立、祈親上人が講堂、三重塔などを建立し七堂伽藍の大寺院となったと伝える。
根據寺傳,在聖武天皇的敕命下,在神龜元年(724年),行基將藥師如來刻為本尊,除本坊之外還建立了12個寺院,當初稱為龜鶴山施藥院寶光寺。之後成為桓武天皇的敕願所,空海(弘法大師)來錫復興,刻下脅侍的日光·月光菩薩,安放在正殿旁,為眼病挖了有靈驗的“目洗井”。
寺伝によれば聖武天皇の勅命によって神亀元年(724年)に行基が薬師如来を刻んで本尊とし、本坊ほか12坊を建立、当初は亀鶴山施薬院宝光寺と称したという。その後桓武天皇の勅願所となり、空海(弘法大師)が来錫して再興、脇侍の日光・月光菩薩を刻んで安置、本堂脇に眼病に霊験のある「目洗い井戸」を掘ったといわれる。
根據寺傳,天平11年(739年),行基在當地對楊柳產生了靈夢,用那棵樹雕刻聖觀音菩薩像,安放在堂宇,這就是寺傳的起源,當時被稱為法相宗。另外,在寂本的《四國偏禮靈場記(1689年刊)》中,聖德太子創建,本尊聖觀音菩薩像是空海作,同時建造了阿彌陀如來,重建了本寺。
寺伝によれば天平11年(739年)行基が当地で楊柳に霊夢を感じその木で聖観音菩薩像を刻み、堂宇に安置したのが始まりとされ、その当時は法相宗とされた。なお、寂本の『四国偏礼霊場記(1689年刊)』には、聖徳太子が創建し、本尊聖観音菩薩像は空海作で同時に阿弥陀如来を造り当寺を再興したとなっている。
里面安放着受害者的遗骨和衣服.
この中に犠牲者の遺骨や衣服が安置されてます
曾经安放着国王的狮子座王座。
かつては王の玉座が置かれていました
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